★ 伝書鳩

 

はすぴーの父親の名前は「利助(りすけ)」といい、親戚からは「りーさん」と呼ばれ

ているが、中国人ではない。今回のネタは父、利助が酔っ払うといつも自慢すること

について書いてみようと思う。

 

父、利助は酒に酔うと、決まってこんな自慢話がはじまる。

 「うぃっく、うちの鳩はだなぁ〜、東京オリンピックの開会式のくす玉に入っていたん

  だぞぉ〜。そしてアベベやスチャラカチャチャ(←チャフラフスカのこと)東洋の魔女

  の頭の上を飛んで、青空を何周もまわったんだぁぁ。」

この話がでると、次はあれがくるなと予想され、案の定くるのが

  「うぃっく、いいか、よく聞けよ。うちのフェニックス号(←鳩の名前)はレースで

   とてつもない記録をつくって、何十年も破られなかったんだぞぉぉ〜、いやーすげぇーな」

 

実際、はすぴーの実家にはオリンピック東京大会組織委員会からの感謝状や日本鳩レース

協会の賞状が掲げられているので、まんざらウソではなさそうだが、実の息子には何も自慢

することがないので鳩を自慢するというのも、息子としては情けない気もするぞ。とほほ。

 

    
  東京オリンピックからの感謝状                    日本鳩レース協会からの賞状         


最近、鳩小屋を見かけなくなったが、昭和40年代には「伝書鳩」を飼うことが流行っていた。

伝書鳩(レース鳩)は古代から平和のシンボルとして愛されてきた反面、その帰巣性は古くか

ら人間に利用され、すでに古代エジプト時代に通信用として使われた記録があるらしい。

伝書鳩を育てる魅力はレースに参加させることだと父、利助は言っていた。

ちょっとここでレースについて説明すると、レースの距離は100キロから1000キロ

まで様々あるようだが、どの場合もゴールはそのハトの飼われている鳩舎(きゅうしゃ)

になる。ハトには帰巣本能があり、地磁気と風景により自分の巣に帰ることができるらしい。

レースではハトの脚に脚環(きゃっかん)と呼ばれる輪をつけて放し、鳩舎に帰り着いた時

に専用の時計に脚環を入れ、時間を記録する仕組みになっているそうだ。といっても距離が

異なるので、「分速」を計算して競うことになっている。

1回のレースで多い時は3000羽程度が参加するらしいが、完走率は80%から90%

と言われている。

 

         



閑話休題

はすぴーがものごころがついた頃には、我が家にはたくさんの鳩を飼っていた。

そしてはすぴーが小学2年生のには、当時「平屋」だった屋根の上に、人間の住む家よりも

大きい鳩小屋を父、利助は作ってしまったのだ。

利助は家にいる時は居間にいる時間よりも鳩小屋にいる時間の方が長かったかも知れない

くらい鳩に熱中していた。よく覚えていないのだが、絶対にかえしたい卵がある時にはコタツ

の中に入れて温めていたこともあった。伝書鳩のレースで良い成績がとれると我が子の通信簿

以上に喜んでいた。こんな父に対して、はすぴーの姉は「んもぅ。お父さんは鳩と私たちと 

どっちが大切なのよっ!」と食ってかかっていたが、利助は「そりゃ、どっちもだ」と答えて

しまいはすぴーは自分と鳩は同じレベルだということを知り、とっても複雑な気持ちだった。

 
   
      人間の住む家よりも大きい鳩小屋              小屋にはたくさんの鳩が。。。若かりし頃の父

鳩小屋の中には、何十羽の鳩がいたんだろうか。あいるは百羽以上いたのかも知れない。

はすぴーは鳩小屋に入ると小さな羽根が飛び交うのが嫌いだったし、利助からも勝手に

入るなと言われていたので、小屋にあまり入ることはなかったが、鳩の赤ちゃんはあまり

気持ちのいいものではなかったという記憶がある。

当時のはすぴーは鳩はみんな同じ顔に見えたが、父、利助は全員の顔を区分していたし、

お気に入りのやつには、フェニックス号とか、ピー助とか名前をつけてかわいがっていた。

鳩小屋はいつも父、利助がこまめに掃除をしていたようだが、それでも小屋は糞まみれで

あの臭いもなんとなく頭の片隅にあるような気がする。

 

鳩の糞といえば、はすぴーはこれのおかげでクラスで一番になったことがある。

小学3年生の時、夏休みの宿題で「ヘチマを育てよう」というのがあった。種をまいて花を

咲かし、ヘチマの実をつくるわけだが、利助は鳩の糞を「肥やし」として土に混ぜてくれた。

そして育てたヘチマの中でもっとも大きいものを学校に持ちよった際に、はすぴーのヘチマが

一番大きく、群を抜いていた。利助が言うには「肥料の違いだろう」ということだ。

この時には、さすがに「うーむ、やっぱりフェニックス号はすげぇ〜」と思ったことがある。

 

伝書鳩の大きなレースは年に3〜4回あったのだろうか。そろそろ戻るだろうと予測される

日になると父、利助は仕事を休んで朝から屋根の上にのって、まだかまだかと恋人を待ち

焦がれていた。はすぴーは今でも利助が空を見上げている姿を昨日のことのように覚えている。

そして憧れの君が帰ってくるやいなや、それはそれは大騒ぎで何やらあちこちに連絡して

いたようだ。結果は当日発表されたのか翌日だったのか、あるいはもっと後になってから

知らされたのか覚えていないが、いい結果だとご馳走が用意された。母もきっとアホらしい

と思いつつ夕飯を用意したのではなかろうか。ちなみに当時のご馳走とは、すき焼き、

ビフテキ、さしみ あたりが滅多に食べられないものだった。

 
   
鳩小屋の中で写真を撮るなんざ相当、鳩がかわいかったんだろう(笑)
 

たぶん10年くらい続けていた父、利助の趣味であった伝書鳩だが、何を思ったのか突然やめ

てしまった。子どもの時にその理由を聞いたことがあるが、何やら難しいことを言っていた

ような気がする。今度、理由についてもう一度、じっくりと聞いてみよう。

  

超驚き!!!お便りコーナー 
 私は貴方の父上のフェニックス号を知っています!!


日本文芸社「荷風!」”昭和30年代”東京に掲載されました

 (原稿:99.10.15)



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