
私が住んでいる足立区の中学校は第1中から始まり、第16中まであった。ここで過去形にしているのは、第15中は第3中と統合し千寿青葉中になり、第16中は第2中と統合し千寿桜堤中になり現存していない。従って現在、足立区で数字を冠にした中学校で最大なのは、我が母校「第14中(足立区西竹の塚1丁目8−1)」ということになる。もしかしたら、日本一のナンバースクールかと思い、調べてみたら大阪府豊中市になんと第18中学校があり、残念ながらNo1ではなかった。はすぴー倶楽部は「昭和のアンビリバボー」を基本コンセプトとしているが、今回は私の中学時代(昭和40年代)の信じがたい思い出話をしたい。
【生徒数は1300名超】
当時、地元中学校は14中しかなかったので、竹ノ塚小、伊興小、舎人小などから入学し、1学年10クラスあり、1クラスには45名くらいだったので、生徒数は1300名を超えていた。現在でも14中は都内公立中学校で生徒数が一番多く”マンモス中”とも呼ばれている。2025年5月時点では、1学年7〜8クラスあり、797名が在籍しているとのことだが、我々の頃の約6割だ。
【ダサイサイクリング車で通学】
そんなわけで、私は自宅から竹ノ塚(14中)まで自転車で通学していた。その頃、子供たちの間では「サイクリング車」が流行っていて私もそれに乗っていた。変速ギアが10段式、スピードメーターやフラッシャーと呼ばれる方向指示器などが装備されていた。ところが、校則では自転車通学する場合、サイクリング車のセミドロップハンドルは低い位置にあり前傾姿勢で危ないという理由で、ハンドルを逆さまに付け替えなければならない。(オートバイでいえばアメリカンスタイルのようでかえって危険だろう)さらに、自転車の横にカゴをつけなければならない決まりがあった。左右に付けるのであれば、安定するが重たいカバンを片方だけに載せるので車体はどうしても傾いてしまう。カゴを付けハンドルを逆さまにしたサイクリング車はかなりダサかったがこれで通学するしかなかったのだ。


【恥ずかしい14ルック】
ダサイといえば、「14中ルック」というものがあった。遠足や社会科見学などの行事の際に生徒は「14中ルック」が指定される。男子は上半身に学ランを着て、下半身は体操着(ジャージ)だ。女子も上は紺のブレザーに、下はジャージ。この格好で電車に乗って国会議事堂を見学するのだから、周囲からの冷ややかな視線が痛かった。政治家の先生たちも相当ひいたと思う。なぜこんなダサイ格好をさせるのか担任の先生に質問したところ「うちの生徒だとすぐに分かるから」だと言う。確かにこのような格好をしている他校はいなかったが、それは教師側の勝手な理由だろう。この恥ずかしい格好を先生たちもしてみろと言いたかった。ちなみにジャージは学年別に色分けされていて、緑、青、赤であった。

【本来停車しない竹ノ塚駅に特急が止まる】
記憶が曖昧なのだが、足立区立”日光林間学園”から帰りの話。移動はバスでなく、なぜか在来線の東武鉄道を使った。その列車は特急で本来、「竹ノ塚駅」には停車しないはずなのだが、「ただいまから足立区立第14中学校の生徒が下車しますので、臨時で停車します」と車内放送があった。恐らく学校が東武鉄道に事前に依頼したのだろうが、今ではありえない話だ。同乗していた他のお客様からクレームはなかったのだろうか。
【非道徳なテストの返却】
こんなこともあった。採点したテストを返却する時に、「点数の良い順または悪い順」に返す先生がいた。たとえば、「今からこの前のテストを返す。まず、河合・・・」と言ったら、今回は良い順だなとわかる。(河合くんは優等生)そして「まず、伊沢(仮名)・・・」と言ったら、今回は悪い順だとわかり、自分の名前が後の方に出てくることを祈願した。こんな非道徳的なことが許された時代だったのかつくづく思う。
【プレハブ校舎とダルマストーブ】
前述のように生徒数が多かったので、校舎に入れきれずに突貫工事で建てた”プレハブ校舎”で授業をした時期もあった。簡易な造りだったのか夏は暑く、冬は寒いのがプレハブ校舎の特徴だ。この写真で給食当番とじゃれ合っていているが、中学生のはすぴーだ。よく見ると後ろに「ダルマストーブ」があり、煙突が教室内にある。当然、煙突に触ると火傷をする。机は木製、電灯が天井からぶら下がっているのが、いかにも昭和っぽい。机の引き出しには給食で食べきれなかった食パンを入れていた輩もいたが、往々にしてカビだらけになっていた。食パンと言えば、体調不良などで学校を休んだクラスメートに、日直当番が給食のパンをわら半紙に包んで自宅まで届けるというルールがあった。そして今では考えられないが、職員室はタバコの煙が充満していた。

校舎の裏(右奥)にあるのがパレハブ
【計算尺クラブがあった】
14中は昔からクラブ活動に力を入れていた。とりわり吹奏楽部の活躍は有名で現在でも様々なところで高い評価を受けている。私の中学時代に「計算尺クラブ」があった。計算尺については、こちらのページを参照して欲しい。要するに物差しのようなものをスライドさせて複雑な計算ができるスグレモノだと思っていただければ良い。計算尺クラブは今で例えれば、パソコンクラブのような感覚だろう。部員はなぜか優等生が多かった。
【技術・家庭科は男女別学】
昔ながらの考え方として「男は大工仕事、女は家事」という役割分担があった。この思想を受けて男子は技術科、女子は家庭科に分かれて授業が行われた。技術科では、本箱を工作したり、ハンダゴテを使ってインターホンを作ったり、製図の仕方などを学んだ。
家庭科の方はよく知らないが、家事に必要な裁縫や料理などを勉強していたようだ。出来上がった料理やお菓子は好きな男子に食べてもらうというのが授業の水面下で行われていた。モテる男子はいくつももられるが、私のようにモテナイ人種はそれを羨ましく眺めるしかなかった。この時「人生は決して平等でない」ことを学習する。(泣)
【この程度で不良扱い】
当時、14中は「足立の学習院」と巷で呼ばれることもあり、とりわけ風紀には厳しかった。生徒手帳には校則がきめ細かく記載されていた。その生徒手帳も遅刻をすると正門で鬼の形相で立っている先生に取り上げられるのだ。反省文を書き、親の署名を添えたものを提出し、教師から再度叱られ、ようやく生徒手帳が返却される。
現在であれば、たいしたことはないと思うことも不良扱いされた。
・髪の毛が耳をかぶる(男子生徒の場合)
パーマや茶髪は一人もいなかった時代、髪の毛が少しでも耳をかぶるだけで注意された。そのままにしておくと、先生が文房具のハサミで切り落とすのだ。ざっくり切られるので、仕方なく床屋に行かざるを得ない。
・刺繍の入った靴下をはく
当時、プロゴルファーのデザイン(ラコステ、アーノルド・パーマー、クロコダイル、ゴールデン・ベアなど)の刺繍の入ったファッションが流行していた。その靴下を履くだけで不良のレッテルが貼られた。もちろん校則では「無地の黒か紺」と指定されていた。
・学校に腕時計を持ってくる
恐らく今でいうなら、スマホ禁止みたいな感覚だろう。ちなみに当時の腕時計はデジタル表示のない時代だ。
・エレキギターを弾く
アコースティックギター(生ギター)を楽しむのは問題なかったが、なぜかエレキギターはNG。”エレキを弾くと不良になる”と言われていた。
・ゲームセンターで遊ぶ
あの頃から「ゲーセン」は存在していたが、中学生が入ると不良と言われた。実際、不良高校生たちのたまり場だった。クレーンゲームやプリクラはなく、「ピンボール(金属の球を用いて点数を競う遊戯機械)」が主体だった。
【体罰は当たり前】
14中はとにかく風紀の厳しい学校だったので、今では信じられないような体罰は日常茶飯時だった。
(私の担任だけだったかも知れないが)まず入学時に保護者からの同意書を提出させる。要約するとこんな内容だ。「お宅のお子さんが何か悪いことをした際、私は体罰をもって指導するので、同意ください」親の方もどうぞどうぞ思う存分に叩いてくださいと同意書に押印する。現在だったら、絶対に考えられないことだろう。
そしてその初体験がやってくる。中学1年、入学してから3ケ月目、雨の日だった。
授業中にチョコレートを食べていたクラスメートが2人いた。それが先生にバレてしまい、当然その2人はこっぴどく叱られるだろうと思っていたら、「注意しなかったお前らも悪い」ということで、全員がビンタされた。チョコレートを食べた2人と学級委員の高橋君は3発叩かれた。その時、初めて「連帯責任」という制度を知るが、納得いかないなぁ〜と思ったものだ。
こんな体罰もあった。理科のS先生は「グーとパー、どっちがいい?」と聞いてくる。グーは両手の握りこぶしで頭をグリグリと押し付ける、パーは手のひらで背中を叩く。どちらを選択しても痛いことには変わらない。もしチョキという選択肢があったらどんな体罰をしたのかと考えるだけで恐ろしい。
修学旅行はお決まりの「京都・奈良」だった。これまたお約束で消灯時間を過ぎてもわいわい騒いでいたら、恐ろしい顔をした先生が突然、部屋に入ってきて「そんなに起きていたいのなら、廊下で正座して朝まで起きていろ」と言う。2時間くらい正座をしていたと思うが、また先生がやってきて「明日は早いからもう寝ろ」に変更。翌日の清水寺・金閣寺の見学は睡眠不足でほとんど覚えていない(汗)
今でもトラウマ的に覚えているのは、中学2年の冬、大雪の日だった。社会科のS先生は自家用車で通勤していた。オレンジ色の三菱ギャランGTO、後日名車だと知る。私と悪友T君はその車のマフラーに雪を詰めてエンストさせようとしていた現場を他の先生に見つかってしまった。こっぴどく叱られただけでなく、雪が積もった校庭を裸足でランニングさせられたのだ。

最後は極め付きの体罰、14中名物の「ケツピン」を紹介しよう。文字通りケツ(尻)をピンと叩く体罰で技術科のK先生・O先生の必殺技だ。旋盤工や万力など危険なものが多い技術室で危ない行為をしたり、悪ふざけをした時はケツピンの刑だ。当時の男子生徒は「連帯責任」のもと、全員が体験したと思う。なんたってあの優等生の河合くんでさえ叩かれたのだから。”ケツピン棒”という専用道具があった。製図で使うT定規の短い部分を外し、ビニールテープを巻いた棒(棒というより板)である。アンビリーバボーなのはケツピンを受ける際に生徒はズボンを下げてパンツ一張になり「よろしくお願いいたします」と言う。(安心してください、履いてます)叩かれた後は「ありがとうございました」とお礼を言う。まるで戦時中の軍隊のようだ。ケツピンは他の体罰よりも相当、痛かった。叩かれる場所はケツというより腿の当たりだ。最初は赤く腫れ上がり、椅子に座ることさえままらない。その後、青くなり、黒くなったアザは10日ほど残った。ケツピンを考案したK先生はその後、14中から伊興中に異動になり、そこでもケツピン刑を実行していたらしい。

昭和の不適切な体罰は現在では法律で禁止され、許される行為ではないが、個人的にはさほど悪い記憶ではない。むしろこうして当時を懐かしがってお笑いのネタにしているくらいだ。同窓会では毎回、体罰を受けた話題で盛り上がる。痛みを伴う思い出は脳裏に深く刻まれるのかも知れない。
お世話になった14中の先生方に敬意を込めて当時のあだ名を書いて締めくくろう。理科のゾヨ、数学の歯っかけ、音楽の原爆ばばぁ、国語の黄桜オバQ、数学のダメおやじ・・・お元気にされておりますでしょうか。お陰様でよく廊下で正座をさせられた悪たれはこんなに立派な大人になりました(笑)
(原稿:2026.5.11)